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Dolly Shadow - Humming Bird - [小説 : Dolly Shadow]




 
 
■ バンリがまだ企業エージェントだった頃の、過去編シリアス話です。
BL前提注意です。あと、少々ダークな表現を含んでいます。スパイ物とかそういう感じの雰囲気が苦手な方はご注意下さい。

 
 
 
 
 
 
 
Dolly Shadow - Humming Bird -

 
 
 
 
 
 

 その白衣の男は、夢中で扉にパスコードを打ち込んでいた。
 研究施設という言葉を絵に描いたような、灰色の壁に覆われた通路。押しつぶされそうな狭い天井。いるだけで吐き気がしそうな、消毒薬の匂い。
 だが、長年この場所で暮らし、半ば囚われの身である男は、それを不快と思う感覚は既に麻痺しているのだろう。
 それは、彼にとっては幸いなのか。それとも……。
「……くそっ、くそっ…… あの連中、何もわかってないくせに……!」
 焦る男のぼやきが、酷く耳障りだ。
 何重もの不快感に眉を顰めながら、バンリは、男の背中にまた一歩近づいた。
 背広の裾が、空調の風に小さく翻る。
 それは、どこにでもいるようなスーツ姿の青年だった。首にはきっちりとネクタイをしめ、顔にはフレームレスの眼鏡。この研究所の職員、と言ってもおかしくない風貌ではあった。
 だがその首にも、胸元にも、職員証らしきものはない。
 眼鏡を指で押し上げ、バンリは天井の監視カメラを見た。
 カメラはただ沈黙したまま、男の白衣を映していた。だが、その背中に忍び寄る者がいると言うのに、カメラは何の反応も示さない。
 透明化の呪文が、上手く作用したようだ。
 だが、一度気を抜けば、すぐに呪文は解けてしまう。そうなれば、警備システムが直ちに警報を鳴らし、警備隊が自分を射殺しようとするだろう。
 集中を解いたら、終わり。
 頬を、冷たい汗が伝い落ちていく。
 この精神的負荷だけは、何度味わっても、慣れない。
「……くそっ……、っ……」
 ピピッと電子音がして、解錠パスが認証されたことを男に伝える。
 そして、バンリにも。
 白衣の男は、安堵したように短い息を付いた。掻き毟るように扉を開き、中に駆け込もうとする。
 瞬間、バンリも同時に動いた。
 部屋に入りかけた男の背中を当て身で突き飛ばし、すかさず自分も中に滑り込む。
 そして、あえて僅かな間隔を置いてから、後ろ手に扉を閉めた。

 バタン……!

 騒音の後の、妙に大きな静寂。
 通路の警備システムは、特に反応した様子はなかった。上役に追い立てられた研究者が、慌てて資料室に駆け込んだ―――― そう見えたのだろう。いかにもありふれた光景だ。それも、こちらが仕組んだことなのだが。
 意識を、部屋の中へ戻す。
 非常灯だけが灯る、薄暗い部屋だった。大量の紙の匂いがする。それと、薬品の匂いも。
 足下には、白衣の男が転がっていた。
 何が起ったのかわからないとでも言わんばかりに、頭を振っている男。
 ここまで来れば、もう彼に用はない。
「……………」
 バンリは、透明化の集中を解いた。
 集まっていた魔力が、シャボン玉のように弾ける感覚。隠されていた自分の存在が、世界にさらけ出されるのがわかる。
 突如現れた気配に、白衣の男は振り返ろうとした。
 だが、それよりも一瞬先に―――― バンリの手が、男の頭を鷲づかみにする。

「……眠れ」

 ただ短く響く、テノールの囁き。
 たちまち、男の身体から力が抜けていく。まるで、子守歌でも聴いたかのように。
 バンリは、静かに手を離した。
 男が、床に崩れ落ちていく。
 少し鼻にかかったような寝息が、白衣の奥から聞こえて来た。
「…………ふ………」
 これで、やっと少しだけ息を付ける。
 頬の汗をぬぐって、バンリは軽く肩を押さえた。
 当て身なんかしたせいで、肩がじんじんと疼いていた。帰ったら湿布でも貼っておかないと、しばらく響いてしまいそうだ。
 ひとまず痛みを堪えて、バンリは隠し持っていた拘束具で足下の男を軽く縛り上げた。
 そして、装着したヘッドセットのスイッチを入れ、口元のマイクに囁きかける。
「……マリィです。ステージに入りました。照明担当の方をお願いします」
『かしこまりました、マリィ』
 即座に応えるのは、オペレーターの女声。
 すると、三秒も待たずに部屋の照明が付いた。資料室らしい狭苦しい部屋の景色が、白い灯りに浮かび上がる。
 バンリは、素早く部屋全体を見渡した。
 特に隠れている気配や不審なものはない。それに少し安堵して、またマイクに唇を寄せる。
「ありがとうございます。それでは、これより公演を開始します」
『グッドラック、歌い鳥。どうぞ素敵な歌を』
 それだけ言い残して、通信はあっけなく途絶える。
 残された静寂が、耳に余韻の糸を引く。バンリは眼鏡を押し上げると、資料棚の方へ歩み寄った。
 途中、ちらと天井の隅を見る。
 そこにある監視カメラが、まるで手を振るように左右に揺れた。ハッカーチームは、上手くこの部屋の占拠を続けてくれているようだ。
 だが、あまり時間はかけられない。手早く済まさなくては。
「………………」
 素早く資料棚に目を巡らせ、目的のものを探す。
 ファイルのタイトルをざっと見る。……見当たらない。当然と言えば、当然だが。
 では、想像力を働かせよう。
 自分なら、極秘資料をどうやって隠しておくだろうか。
「……そう、ですね……」
 眼鏡を指で押し上げ、バンリは小さく呻った。
 そう、例えば…… さも何でも無いもののように、どこかの資料ファイルの中に潜ませておく。その手はどうだろう。
 不特定多数が利用する場所なら、それは不用心極まりないけれど。
 でも、利用者が限られていて、極秘ファイルを隠していることを皆が知っているのなら、自分のような侵入者に対してはむしろカムフラージュになるのではないだろうか。木を隠すなら森の中、と言うように。
「……………」
 それらしい、何でもなさそうな大きめのファイルをいくつか取り出して、ざっとめくってみる。
 一冊目。二冊目。見当たらない。
 だが、三冊目のファイルの真ん中の辺りに来て―――― バンリは、手を止めた。
「……これ、ですね」
 思わず、ニヤリと笑みが浮かぶ。
 ここに来るまでの間に散々頭に叩き込んできたデータ概要と、完全に一致する。もちろん、自分には意味などよくわからないし、わかる必要もない。これが『ビンゴ』であることさえ判断出来れば、充分だ。
 さっそく閲覧机の上にファイルを乗せ、懐から小型カメラを取り出す。
 最初のページを撮影し、すぐに送信。
 念の為に、もう一枚撮影。
 次のページをめくり、撮影、送信。念の為にもう一枚。そして、次へ。
 それを、繰り返していく。
 一枚一枚、丁寧に。


 ――――そもそも、『これ』が紙媒体だった為に……。
 愚痴のひとつも言いたくなるのを、バンリはただ舌打ちだけで堪えた。
 これがもしもデジタルデータだったら、自分はこんな所に来なくても良かったのだ。今この部屋のセキュリティを押さえているハッカー達が、さっさとコピーして持ち去っているだろう。
 当初、『これ』はデジタルデータだと思われていた。
 専門のハッカーチームがネットワークを介して送り込まれたが、データベースをいくら漁っても見つからない。どこかに移したという形式もなく、もしやアナログデータなのでは…… という推測が立った。
 そうして派遣されたのが、自分だ。
 『マリィ』でも、『歌い鳥』でも、呼び名はどちらでも構わない。何だって構わない。
 ただ、ひとつだけ確かなのは…… 今の自分は、『バンリ』ではないこと。
 善良な市民ならば眠っているであろう時間に、こんなドブネズミの真似事をしている自分―――― ふと、何か胸の奥が詰まるような瞬間も、無いわけじゃない。
 でも。
 これが、自分の仕事だから。
 幼い頃に魔術の才能を見いだされ、『企業』によって生かされてきた自分には、これしか生きていく術はないのだから。
 こうしなければ、生きていくことなんか、出来ないのだから。
(………千紗さん………)
 ふと、懐かしい名前が胸に沸き上がる。
 お日さまのようなブロンドの髪が、脳裏を過ぎった気がした。そして、バンリと自分のことを呼ぶ、あの優しい声が。
(……千紗…さん……)
 胸の中ではその名を呼んでも、自分のこの身体は、何事もないように『任務』を続けている。
 あの人は、今頃…… どうしているだろう。
 一日の激務に疲れ切って、ベッドの中で、泥のように眠っているだろうか。
 『企業』という国家の中で、上へ上へと登り続けている、あの人。
 元気にしているだろうか。もう一年以上も会っていなくて、少し淋しいけれど。
 ……いや。
 心の中で、バンリは首を横に振る。
 もう、あの人に会うことはないかもしれない。二度と。
 自分はもう、影の者だから。
 表に出るべきではない。出てはいけない。いつかはこの都会の闇の中で、ひっそりと消えていく。それだけの存在、だから。
 あの人の側に居させてもらった、十年近い年月。
 あの人からもらった、たくさんの、たくさんの…… 優しい、光。
 それだけで、自分のような者には、身に余る光栄なのだから。
 罪になる程の、幸せ、だったのだから。
「……………」
 ぱらりと、ページが指から零れる。
 それをめくり直し、バンリはまたカメラに納めた。そして、送信。
 天井の監視カメラが、此方を凝視している。ヘッドセットからは、無言の圧力。早く任務を遂行せよ、と。
 その通りだ。
 余計なことを考えている自分を、バンリは懸命に頭の片隅へ押し戻した。
 今は、仕事中。ほんの少しの油断でも、闇に消える日が早まってしまうかもしれないのだから。
 それに……。
 自分は、『企業』の為に闇に染まっていく。
 あの人は、『企業』の中を全力で駆け上って行く。
 それならば、今自分がしていることは…… つまりは、あの人の為でもあるのだ。
(……千紗さん……)
 きゅっと、唇を固く結ぶ。
 資料の残り枚数を確認し、バンリはペースを速めた。一秒でも早く終わらせ、そして、帰還しなければ。
 そう。
 これは、あの人の為。
 あの人の、為。
 こんな薄汚れた世界のことを、あの人は知らなくていい。いつまでも、お日さまのようなあの人のまま…… 走り続けて…… 輝き続けて、欲しいから。
 だから。
 あの人の為なら、自分は、何だってする。
 どんな覚悟でも、してみせる。笑うことさえ知らなかった自分に、あんなにもたくさんの幸せをくれた…… あの人の、為ならば。
 例えそれで、影のように消えていくのだとしても。
 それでも、構わない。きっと。
(……あと、少し)
 残り少なくなった資料を、バンリはカメラに納め続けた。
 一枚一枚、丁寧に。心を込めて。
 そして、最後の一ページをカメラに納め、送信し、ファイルを閉じようとした――――時。
 ザザ…… と、耳元に奔るノイズ。
 切ったはずのヘッドセットのスイッチが自動的に入り、そして、オペレーターの声が聞こえて来た。
『公演中失礼します、マリィ。よろしいですか』
 ビクッと、肩が波打つ。
 ファイルを閉じかけた手を止め、バンリは慌ててマイクを口元に当てた。
「は、はい。何でしょうか」
『メールが届いていますので、ご覧下さい。最優先です』
「……メール?」
 思わず、聞き返す。
 だが、オペレーターは沈黙してしまった。伝えるべきことは伝えたとでも言わんばかりに。
 微かに届くノイズが、早くしろと急かす。
 バンリは左腕を掲げると、袖口に仕込んだ小さな端末をのぞき込んだ。
 着信、一件。
 宛名の無いその通信文には、無機質なゴシック体で、短い文言が綴られていた。
 
 
 
>《至急》
>
> 貴殿が捕獲せし研究者は、件のプロジェクトにおいて重要なるポストにあることが判明した。貴殿のもたらした好機に心より感謝する。
> よって、貴殿には追加業務を命ずる。
>
> “排除”せよ。
 
 
 
「―――――――――――っ……!」
 バンリは、息を飲んだ。
 頭から冷水を浴びせられたような、感覚。一瞬、全ての血が凍り付き―――― そして、足下からじわじわと、蚯蚓のような寒気が全身の神経を這い上がっていく。
「………、は………」
 まるで錆び付いたような動きで、バンリは首を巡らせた。
 床の上には、あの白衣が転がっている。
 拘束され、未だに眠りの呪文に落ちている男。まだ、目覚める気配もない。
 湧き上がって来た唾を、バンリはごくりと飲み込んだ。
 生ぬるい汗が背中を伝い落ちていくのがわかる。足下から這い上って来るのは、寒気なのか、それとも熱なのか。
 目の前に広がる部屋の景色が、カタカタ、カタカタと、小刻みに揺れはじめた。
「……排……除……」
 耳元から流れ出す、波音のようなノイズ。
 びくっと身を震わせるバンリに、無機質な女声が告げた。
『公演中失礼致しました、歌い鳥マリィ。さぁ、どうぞ素敵な歌の続きを』
「っ、ま、待って下さい。それでは予定と違――――」
 ぷつん。
 あっけない音と共に、通信は途絶える。
 もう、ノイズさえ残らない。
 代わりに、空調の吹き出し口から冷たい風が吹き出してきた。汗をかいた背中が冷やされ、ゾクゾクと寒気だけが身体を這い回る。
 視線を感じた気がして、バンリは顔を上げた。
 天井の監視カメラが、相変わらず此方を凝視している。
 まるで、何かを責め立てるように。
 早くしろ。そうとでも、言わんばかりに。
「……………」
 ごくんと、バンリは喉を鳴らした。
 白濁しそうな意識とは裏腹に、自分の手は勝手に懐へと入り込んでいく。そして、その一番奥から、小さな革ケースを掴み出した。
 震える指で、蓋を開く。
 発泡スチロールが敷き詰められたその中には、小さな注射器が横たわっていた。
 そして、透明な液体が入ったアンプルが、一本。
「……排、除……」
 注射器を、指で摘み上げる。
 透明なそれに映る自分の顔を、バンリはじっと見つめた。
 我ながら、無様な顔をしていると思った。震える唇を噛みしめ、今にも泣き出しそうにぎゅっと眉根を寄せている、自分。
 ……初めてじゃ、ない。
 今までだって、何度かしてきたことだ。何度か…… 何度、も。
 だから。
 何をそんな、震えることがある?
 何を、今更。
 そう、何もかも、今更なのに。
 仕事がひとつ増えただけ。そう。汚らわしいことをしているという事実は、こんなドブネズミの真似をしている時点で、既に充分なのだから。
 ……そうだ。
 今更、罪の意識を覚えたからって…… だから、何になる。
 それで、赦されるとでも?
 もしも任務を放棄なんかすれば、この身に降り注ぐのは、冷たい銃弾の雨。
 今夜消えるのは、自分か。
 それとも、自分には何の関わりもない、他人か。
 そんな、答えのわかりきった質問…… 問いかける意味すら、ない。
「……………」
 ふぅ、と。ひとつ、息を付く。
 震えていた身体が、次第に鎮まっていく。ひとつ、またひとつ、息をつく度に。
 先刻足下から寒気が這い上ってきたように、今度は、冷たい氷水が足下から全身へと巡っていった。
 凍れ。
 凍れ。自分の中の、全てのもの。
 すぅと瞼を伏せ、そしてまた開けば。そこは、色の欠片もない、灰色の世界。
 まるで、舞い降りてきた雪が全てを覆い尽くしたかのような、世界。
 注射器に映る自分の顔から、表情は消えていた。
 ただの、動く人形だった。
 人形は手慣れた仕草でアンプルを折り、注射器の中に透明な液体を満たしていく。
 これが何なのかなど、知らない。
 知ったところで、意味はない。人形にとっては、何も。
「……………」
 ちらと、天井のカメラを見遣る。
 だが、すぐにまた目を逸らすと、バンリは横たわる男に近づいた。
 手袋をした手に、小さな注射器を掲げて。
 眼鏡の奥の瞳に、男の白衣がぼんやりと映っていた。ただ、硝子玉が虚ろに物を映しているかのように。
 背広の裾を軽く払い、バンリは床に膝を突いた。
 男から拘束具を外し、そして、首筋を覆うワイシャツの襟を、ずるりと、ずるりと、押し下げていく。
「……………………さ………さ…ん………」
 

 ひとつだけ、わかっていることがある。
 自分は、何でもしようと思って来た。あの人の為なら。自分に光をくれた、あの人の為ならば。
 だけど。
 だけど、こんなのは…… あの人の為じゃ、ない。
 断じて、違う。
 こんなのは、ただ、自分の為。
 少しの間だけ、自分が生きのびる。ただ、それだけの為…………


 横たわる男が、僅かに身じろぎをする。
 馬乗りになるようにしてその身体を押さえ付けると、バンリは、手にした注射器を掲げた。
 唇から零れ落ちる、吐息。
 最後に、一度だけ。そっと、瞼を伏せる。
「……すみません」
 この目を開いた時、自分は、ただの人形だから……
 せめて、まだ血の温もりがあるうちに。さようなら。おやすみなさい。
「これも…… 仕事、ですので」
 静かに、瞼を開く。
 そして、バンリはただひとつ瞬きをすると、注射針を男の首筋にそっと当てた。










                 *









 路地に止っていた乗用車が、迎えるように扉を開く。
 中に乗り込むと、バンリはどさりとシートに身を沈めた。
 扉が勝手に閉まり、車は静かに走り出す。車窓に流れていく、裏路地の風景。
 眼鏡を取って軽く両目を擦ると、バンリはそれを顔にかけなおした。そしてまた、シートに深く身を沈める。
「……よぉ、マリィちゃん」
 待っていたかのように、隣から声がかかる。
 運転席へ目を遣ると、見慣れた男の横顔が自分に笑いかけていた。片手でバンドルを握りながら、彼はもう片手を軽く掲げる。
「お疲れさん。無事に戻って来てくれて、何よりだ」
「……お疲れ様です。ヒナタさん」
 バンリも、軽く頭を下げた。
 そんなバンリにハハッと笑うと、男はカーステレオのスイッチを押し込んだ。スピーカーから、場末のバーのようなジャズが流れ出す。
「どうだった。上手く行ったかい?」
「……ええ。上々です」
「そうか。ま、怪我もないようだし、良かった良かった」
 またハハッと笑いながら、男は長い前髪を掻き上げる。灰色とも茶色とも付かない、カフェオレのような色の髪。
 運び屋、ヒナタ。
 車両の扱いに長け、車に載るものなら何でも運ぶという男。物でも、人でも。
 シートに押しつけられた蝙蝠のような翼は、まさしくヴォルグ族のそれだ。だが、その翼が空に羽ばたいているのは一度も見たことがない。いつもそうやって、邪魔そうにシートに押し込められているだけ。
 基本はフリーの身だが、最近は何やらよく上の方に雇われているらしい。
 こうして仕事を共にする機会も、最近、増えた。
「疲れただろ、マリィちゃん。ちゃんと会社に運んでやるから、少し寝てな」
 まるで子供を宥めるように、ヒナタは言う。
 だが、バンリは首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。まだ…… 勤務中ですから」
「お堅いねぇ、相変わらず。まぁ、寝なくてもいいから、ゆっくりしてればいいさ」
「……ええ。ありがとうございます……」
 また軽く頭を下げて、バンリは少しだけ首を横に倒した。
 車が大きく旋回し、外の暗闇が一瞬でネオンの色に染まる。裏路地から、表通りに出たようだ。
 ……眩しい。
 拒絶するように、目を瞑る。
 腰からずぶずぶと、まるで泥になって溶けていくような気がした。もう、脚は感覚がない。あまりにも、疲れ切っていて。
 寒気だけが、まだ背骨の芯で燻っていた。
 残っているのは、それだけ。
 空っぽ。
 ただ、寒くて。
 寒くて。
「………………さむ…い………」
 無意識で零れた声に、ヒナタがぴくりと肩を揺らす。
 革コートの擦れる音がして、大きな手が目の前に伸びてきた。強引に前髪を掻き上げ、額に手のひらを押し当ててくる。
「……って、おい!」
 一瞬、その手が離れる。
 だが、今度はもっと広く前髪を掻き分けると、額全てを包み込むように手のひらが被せられた。
「すごい熱だぞ、お前…… 多分、40度近い」
「……ヒナタさん、前見て運転して下さい……」
「っ、こんなで会社戻れるのか? 一度連絡して、メディックの方に直行した方が――――」
「いいえ」
 力の入らない手で、ヒナタの腕を掴む。
 そのまま押し戻そうとすると、大きな手は少し躊躇うように離れた。息を飲むヒナタに、バンリはただ首を振る。
「大丈夫です。透明化の呪文は、とても集中を要するので…… オーバーヒート、みたいな…… ものですから」
「……………」
「少し休んでいれば、治りますから…… だから……」
 信号が、赤に変わる。
 車が停止し、ネオンの流れも止った。後ろに続く車達から、ブレーキの音が聞こえてくる。
「……………」
 ヒナタは、溜息をついた。
 彼は身を捩ると、ごそごそ後部座席を探り始めた。そのまま何か引きずるようにして、毛布らしきものを取り出す。
 そして、それを大きく広げると、バサッとバンリの上に被せた。
「わかったよ、マリィちゃん」
「……ヒナタさん」
「お前さんが、そう言うなら。それでいいさ」
 ぽん。
 毛布の上から肩を叩く、ヒナタの手。
 ひとつに結んだ髪を揺らして、彼はまた運転席に収まった。その顔だけは、まだバンリへと笑いかけながら。
「だけど、せめて少し寝な。その方が、回復も早いだろ。な?」
「……………」
 信号が、青になる。
 僅かに押さえ付けられるような感覚と共に、車はまた走り出した。
 ヒナタの笑い顔が、また横顔に変わっていく。
「……………」
 身体に掛けられた、一枚の毛布。
 バンリは、それをのろのろと握りしめた。
 空っぽになった自分の中に、また、少しだけ…… 戻って来る、何か。
 薄い毛布の、仄かな温もり。
 柔らかい。
 暖かい。
 そんなことを感じるのは、何だか…… とても、久しぶりのような、気がして。
「………っ……」
 ぎゅっと、胸に押し当てる。
 薄い毛布にくるまって、バンリは、震えるように瞼を閉じた。
 凍り付いていた自分が、融けていく。
 だけど、それは…… 麻痺していた感覚が、また、甦ってくるということ。
 毛布の中で、バンリは自分の身体をぎゅっと押さえ付けた。
 こうしなければ、寒くて。寒くて。
 震えが、止らなくて。
 何か思い出しそうな自分を、夢中で押さえ付ける。
 何か、今にも叫び出しそうな自分を…… 夢中で、押さえ付ける。
「……………」
 毛布の端が、革のシートを小刻みに擦る。
 さらさら。さらさら。
 その微かな音に、ヒナタの顔がバンリの方を向きそうになった。
 だが、その寸前で、彼は動きを止める。
 何か言いかけたように、溜息のような音を洩らすと。ヒナタは、首を前に戻した。
 すれ違っていく、車のライト。
 ぽつぽつと乾いた音がして、窓ガラスの上をワイパーが動き出した。
 辺りに満ちていた音を、ジャズの音色を、雨音がゆっくりと飲み込んでいく。
「……何だかなぁ、オレも……」
 ふと、ヒナタが呟いた。
 くしゃくしゃと、髪をかき回すような音。どこか自嘲気味に、彼はフッと笑う。
「ここにいるのが、オレじゃなくて…… あの人だったら…… って、思っちまうのは、さ」
「………………」
 あの人。
 お日さまのような、あの人。
 こんな夜に、何故なのだろう。一緒に過ごしてきた頃のことが、何だか…… 妙に思い出されて、しかたがなかった。
 二人で、一緒に歩いたこと。
 喋ったこと。
 笑い合ったこと。
 今は遠い、あまりにも遠い…… あの人がくれた、たくさんの、光。
 もう二度と、戻れない。
 戻る資格も、ない。
 闇に染まるのが怖いとか、辛いとか、そういうことではないのだ。
 ただ……
 ただ、あの人が…… あの人の光が、遠く、遠くなっていく。
 そのことが、ただ、悲しくて……
「ヒナタ、さん」
 息苦しさに喘いで、バンリは、言葉を吐き出した。
「あの方は、まだ…… 僕のことを、覚えているでしょうか……」
「……………」
 何故、そんなことを訊いてしまったのか。
 自分でも、わからなかった。
 降り続ける雨音が、夜の世界を洗い流していく。ジャスの旋律も、車のクラクションも、もう聞こえない。
 これ以上震えないように、唇をきゅっと噛みしめて。バンリは、毛布の中に顔を埋めた。
 このまま、眠ってしまおうと思った。
 その時だった。

「………くくっ…… あははは…はは………」

 不意に、笑い声が聞こえたのだ。
 可笑しそうに、静かに笑い転げる声。低く、低く、まるで木枯らしのように。
 一瞬誰の声かわからず、バンリは目を瞬かせた。
 運転席の方へ顔を向けて、やっと、ヒナタが笑っているのだということに気が付く。
「……ヒナタ、さん?」
 怖ず怖ずと、バンリはその名を呼んだ。
 それにも応えず、ヒナタはただ笑っていた。さも可笑しそうに。そして、どこか滑稽そうに。
 信号が赤になり、車が止る。
 バンドルから手を離して、ヒナタはやっとバンリの方を向いた。
 その人差し指が、ゆっくりと向かって来る。
「なぁ、マリィちゃん。フリーのはずのオレが、どうしてこんなにお前さんと仕事してるのか…… 考えたこと、あるかい?」
「え……」
 ただ、ぱちぱちと目を瞬かせる。
 そんなバンリに、少し口の端を吊り上げてみせると。ヒナタは、さらりと告げた。 
「……あの人だよ」
 それはまるで、物わかりの悪い子に教えるような、口調。
「あの人が…… 千紗の旦那が、裏で手を回してるんだよ。お前さんの送迎役には、出来るだけオレを雇うように、ってね」
「え……… え……、っ……」
 上擦った声が、洩れた。
 何を言っているのか、わからない。
 頭の中が、真っ白になった。オーバーヒートして、今にも煙を上げてしまいそうな……
 目を見開いていくバンリに、ヒナタはまたくすっと笑った。
 そして、ハンドルから離した手を、そっとバンリの方へ伸ばしていく。
「あのな、マリィちゃん」
 くしゃっ。
 ヒナタの手が、乱暴に髪を撫でた。
「千紗の旦那、マリィちゃんが気になってしょうがないんだとよ。お前さんが、今どうしてるのか。無事でいるのか」
「………な……」
「気になって、気になって、どうしようもなくて…… それで、オレを送り込んで来たわけさ。せめて、お前さんの側で…… 自分の代わりに、支えてやってくれって」
「……そん…な……」
 ふるふると、首を横に振る。
 ヒナタの手の下で、青褐の髪がさらさら揺れる。
 バンリは、子供のように首を振った。何度も、何度も。
 唇が、震えて。
 整ったその顔が、くしゃっと、歪んで。
 眼鏡の奥の目を、力一杯瞑って。バンリはただ、首を横に振る。
「そん、な…… 千紗…さ………」
「本当だよ。マリィちゃん」
「そんな…っ…… 千紗さんが、そんな………!」
 まるで、悲鳴のようだった。
 夢中でヒナタの手をはね除け、バンリは毛布の中に顔を埋める。
 信号が青に変わり、車はまた走り出した。降り続く雨音の中を、まるで滑っていくかのように。
 引き裂きそうに毛布を握りしめ、バンリは、呻いた。
「……そんな…… 千紗…さん……」
 自分がもう、どんなに醜く変わってしまったのか…… あの人は、知っているはずなのに。
 それなのに。
 それなのに。
「………そん、な………」
 あの人の、光。
 お日さまのような、あの人の温もり。
 ヒナタに撫でられた髪から、毛布に押し当てた頬から、身体中から…… 染み込んで、くる。
 染み込んでくる。
 闇に染まっていく自分に、入り込んで来る。浸食される。
「……そんな…… 僕はもう、そんな資格………」
 隣から、大きな手が伸びてきた。
 その手はバンリの髪をそっと払うと、顔から眼鏡を取り去っていく。
 溢れ出した雫が、頬をこぼれ落ちた。
 カチャッと眼鏡を置く音がして、ヒナタの声が、静かに響いた。
「資格があるかないか。それを決めるのは、千紗の旦那だ。お前にその権利はない」
「……………」
「だから、お前は生き延びるしかない。あの人の為に」
 また頭の上に置かれる、手。
 そのままバンリの髪をくしゃくしゃと撫でて、ヒナタは戯けるように笑った。
「な。良い子だ、マリィちゃん」
「……………」
 離れて行く手が、ステレオのボリュームを上げる。
 蕩けるようなジャズの音色が、車の中に満ち始めた。降り続く雨音を伴奏に、低く、切なく、流れていく旋律。
 ひくっと、バンリはしゃくり上げた。
 撫でられた髪が、毛布に包まれた身体が…… 熱くて、震えて、しかたがない。
 バンリは、自分を毛布ごと抱きしめた。
 強く、抱きしめた。
「………さ…さん……」
 車は、夜の街を駆けていく。
 都会の影を駆けていく。歌い鳥に、また闇夜の歌を歌わせる為に。
 生きる為に、『歌う』。
 あの人の為に、『歌う』。
 雨音はジャズの音色に飲まれ、ジャズは泥のような眠気に飲まれ、世界は、沈黙していった。
 ただひとり、啼き続ける歌い鳥。
 ただ、それだけを残して。

「…………千紗……さ…ん…………」



 眠りに落ちていく自分の手を、誰かがそっと握った。 
 まるで、懐かしい人がそこにいるような…… そんな気が、した。


 
 



FIN








 
 
■ バンリの過去話はそのうち書こうと思っていたのですが、何か長くなりそうなので、なかなか書くタイミングがつかめなかったのです。
でも、やっと書けて満足。
ちょっと可哀想なバンリ、大変楽しく書かせていただきました^^
ヒナタも出せて良かった良かった。千紗は出番はなかったですけど、一番美味しい所持ってったと思うので良しです。
(そして、一番損をしたのは…… 間違いなく、ヒナタ^^)



   僕が今、どんなに幸せか…… 貴方に、伝わりますか?
 
 
 
千紗とバンリは、きっと一緒にいるだけで幸せ。
特に何もすることなく、ソファーで寄り添って過ごしたり、一緒にお茶を飲んだり、そうやって一緒にいられる幸せを噛みしめてそうな気がします。
まぁ、もっと色々いたしても全く構いませんが^^ (少し自重するべき)
むしろ、この二人はBL関係になって当然…… いや、なるべきだよね…… とか、書きながら思ってました。
たぶん、再会したその日にそうなってる。きっと。(いつかその辺も書きたい)
……ヒナタ、ホントにご苦労様。

■ そして、今回の犯行のキッカケ。
禰御庵さんの企画で、バンリを描いていただいたのです^^

banri.png

きゃぁぁぁぁ、お仕事モードのバンリ! 何て格好いい……(*>▽<*)
人様のブログで思わず奇声を発してしまいました。ああああ、何かすごく感激しました。格好いいよバンリ…… よかったね……
このイラストを拝見して、「過去話書くなら今しかない!」と、今回の犯行に及んだのでした。
今回の話、三分の二を一日で書きましたからね。どれだけテンション上がってたのかと。
素敵なイラスト、本当にありがとうございました……!
 
 

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